「ねえ、聞いてる…?」
彼は店を横切っている川と全く同じ色をしたコーヒーをズルズルと啜っていたが、一旦ストローから口を離して「ア゜ー」と答えた。聞いたことのない音で返事をされた。一体どこから声を出しているのだろうか。
しかし、私の話に興味を示していないということは確かだ。彼は返事を終えるとテーブルを吸い上げる勢いでまたコーヒーを啜り始めた。先ほどから彼の視線は私ではなくテレビの方に向かっている。テレビではいつものように壊れたアド街ック天国(二人のイノッチが重なり合った状態で番組を進め、ない街を延々と紹介し続ける)が流れている。 2020年の東京オリンピックの後あたりからだったか、テレビ番組が壊れ始めて今のような状態になったのは。そういえば最近、2036年のオリンピックが四国で開催されることに決まった。この四国大会から千日回峰行が新たにオリンピックの正式種目として採用されるらしく、私はそれだけを楽しみにしている。千日回峰行を2回成功させた酒井雄哉さんの話でもすれば少しは彼の興味を引けるだろうか。
あれ、さっきまで何の話をしてたんだっけ。
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そうだ、思い出した、「緑の変態」の話だ。近頃では変質者が現れることなど珍しくはなく、ただの変質者を見ただけで大騒ぎし、「この人変なんです」ということにはならない。しかし、「緑の変態」が現れたとなると話は違う。脳に直接送り込まれてきた不審者情報によると、昨日の午後4時ごろ、帰宅途中の女子中学生が「緑の変態」を名乗る男に3回ほど体をすり抜けられたそうだ。幸い女子中学生にけがなどはなかったが、すり抜けられた際に体操服袋のみが溶かされていたそうだ。さすがは「緑の変態」を名乗るだけある。あと体操服袋ってなんだ、体操服を入れる専用の袋があるのか。この女子中学生は「とても怖かったが、ピンクや肌色の変態しか見たことがなかったので初めて緑の変態を目の当たりにしてとても感動した」という旨を警察に伝えたそうだ。本人にも伝わるといいですね。私は今まで、ベルトをカチャカチャしている牙狼しか見たことがないが、実際本物に出くわしたらと考えると恐ろしい。でもそんな感動体験ができるのなら少しは見てみたいような気もする。
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いざという時、目の前に座っている横断歩道のTシャツを着た彼は私を助けてくれるだろうか。さっきの間抜けな声でビビらせるくらいはできるかもしれないとも思ったが、実際そういう状況になったら自己ベストの速さで逃げ出すだろう。彼が私を無視し、信号も無視して、ETCを破壊して高速道路を逆走していくのをこのまま黙って見ているわけにもいかない。なんとかして私の方を見てもらわなければ。
目を閉じてゆっくりと息を吐く。イメージするんだ、カレーにから揚げが乗っている、そしてそこに生卵が落としちゃってある。3月のライオンで読んだ。男の子は馬鹿のカレーが好きなのだと。3月のライオンは正しいゲロの吐き方も教えてくれた。強くイメージしろ、私は馬鹿のカレーになるんだ。この瞑想は今まで成功したためしがないが、今日はなんかいける気がする。目を開ける。彼はこっちを見ている、成功したか。窓ガラスを覗くと、ライオンの頭にヤギの胴体、うねうねと動く蛇の尻尾、右手に拳銃、左手に花束、そこにはギリシャ神話の怪物キマイラの姿があった。デフォルメされ、ポップな感じになったやつではなく、妖怪図鑑とかに載ってるリアルで若干エロいほうのやつだ。しかも、体毛の質感とか、体のラインの丸みとかに人間らしさが残っておりかなり気持ちが悪い。あと目ヤニがすごい。3月のライオンのライオンの部分に引っ張られたのか、まあ、キマイラも強い動物てんこ盛りだし、かなりロマンはあるので大丈夫だろう。
そこでこう言い放つのだ。
「男の子ってこういうのが好きなんでしょ」
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「……いや、別に。急にどうしたの?」
(はやく帰ってウォーキングデッドの続きみてー)